第5章『跟』41夜
まだ22時を過ぎたばかりだというのに、畠さんは
「もう遅いから、帰りなさい」
と私をタクシー乗り場まで送ろうとした。
「まだ、終電にも時間があるし、大丈夫です」
と私が言っても、聞いてくれない。
「もう少しだけ、あとちょっとだけ、一緒に居たいんです」
部屋に戻れば、あの写メ(鈴木さんとのキスシーン)を思い出さねばならず、そして、何度もブルブルしているケータイのメールに返信もしなければならないだろう。
凜花さんに相談したいけれど、きっと彼氏と日曜の夜を楽しんでいるだろうし、イライラしながら、返信メールを待つのも嫌だった。
そして、なにより、畠さんと離れたくなかった。
私は畠さんのスーツの裾を引っ張る。
畠さんは困った子だなと戸惑うような、でも、そこまで嫌な顔もせず、
「仕方ないな、とんだ夜遊びお嬢さんだね」
と私の先を歩き始めた。
私は慌てて追いかけて、またスーツの裾を掴んだ。
本当は手をつなぎたかったけど、そんな勇気は全然なくて、ただ、ギュッと掴んだスーツの裾を離さないように少し早足になりながら、付いて行った。
細い路地の雑多な飲み屋街の入り口には『ゴールデン街』と看板がアーチ状に掛かっていて、これが有名なゴールデン街かーとおのぼりさん状態で、怪しい看板を一つ一つ見て行った。畠さんは慣れているらしく、すいすいと、それこそ自分の家の庭のようにずんずんと進んでいく。私はもうどこをどう歩いているのか、まったくわからず、迷宮の中にはまり込んでしまったような錯覚に陥った。
その途端、畠さんは一軒の扉を開いた。
「こんばんは。ふたり、入れる?」
お店は恐ろしいほど狭かった。
カウンターの中に入っている中年のママさん?は指でOKを作り、顎で席を指し示した。
「すみません」と言いながら、細くて狭い通路とも呼べないスペースを通り抜けて一番奥に私たちは座った。
「わがまま言ってごめんなさい」
私は素直に謝った。
それから、
「これが有名なゴールデン街なんですね」
とも付け足した。
「瑠璃果ちゃんみたいな子はまぁ、来ないよね?」
と畠さんは笑い、ママさんにバーボンロックと「この子にはウーロン茶」と注文した。
私はウーロンハイがいいですと主張したけど、畠さんにダメ!と言われた。
私は「はい」と頷くしかできなかった。
飲み物が来ても2人とも黙っていた。
2軒目のバーではあんなに沢山の事をおしゃべり出来たのに、喉に何かがつかえているようで、言葉が出ない。
視線を下した私の目に飛び込んでくるのは畠さんの左の小指だけだ。
右手でグラスを持つ畠さんの左手は畠さんの太腿の上だ。
私は俯いたまま、その左手の小指をそっと撫でる。
畠さんは無言のまま、撫でている私の指を自分の指で絡め取る。
体中がジンジンとしてくるのがわかる。
畠さんに伝わってしまったらどうしよう。
はしたない女だと思われてしまう。
でも、そう思われてもいい、構わない、今はこの絡んだ指を外したくなかった。
暫くふたりでそうしていたら、畠さんが突然口を開いた。
「瑠璃果ちゃん、初恋っていつ?」
それって、精神的な事?それとも肉体的な事?私は少し悩んで、精神的な方を選んで「小6です」と答えた。
相手は運動会で同じ白組になった男の子だった(私の小学校ではクラスの半分を白組紅組に分けていた)。
普段はそんなに目立たなかったけど(同じく私もだけど)、その子は騎馬戦で大将になり、敵側の赤い帽子をすごいスピードで容赦なく奪っていく姿は勇ましく、格好良かった。
そう思った女の子は沢山いたらしく、運動会の後、その子は人気者になった。
私と言えば、卒業するまで一言も口をきけずに、中学では違う学校になってしまったから、
卒業式の夜にお風呂の中でわんわん泣いた、というような話をした。
畠さんは話を聞き終わると
「瑠璃果ちゃんっぽくて、なんだか甘酸っぱいね」
と笑った。
つながった指はそのままだ。